2006年02月12日

中国は4000年か、5000年か

引用

メールマガジン 日中戦争の問題点を検証する

第2話 中国の歴史は4千年か?5千年か?その1

 よく「中国4千年の歴史」とか「中国5千年の歴史」とかいわれているが、
この差千年は非常に大きい。
どっちでもいいじゃないか、というわけにはいかない。
中国では「中国5千年の歴史」といい、日本では「中国4千年の歴史」という。
いったいどちらが正しいのだろう?
検証してみよう。



方法は歴史を確実な時代からさかのぼっていく。
紀元1年は前漢時代の末に当たるのは異存のないところだ。
紀元9年に王莽(おうもう)の簒奪があり、国名は「新」となった。
15年のち王莽の死によって後漢が始まる。

では紀元前1000年はいつの時代かというと、周王朝の時代となる。
周は前王朝の殷の紂(ちゅう)王を討って周の武王がひらいたのであるが、このときを
何年とするか、である。
この牧野(ぼくや)の戦いを受命11年とし、このころを紀元前11世紀の半ばころ、
つまりBC1050年としている。
この根拠は司馬遷の『史記』の「周本紀」による。

その前は殷王朝である。
1899年(光緒25)に河南省安陽の殷墟が発掘され、王宮、宗廟、王陵、などの
遺跡があきらかになり、殷王朝の実在が証明された。
盤庚(ばんこう)から紂王までの首都であったという証明はされた。

〜中略〜

殷はこのように30代続くのであるが、2代、3代は兄弟、5代、6代も兄弟、
7代、8代、9代も兄弟、10代、11代、12代も兄弟、14代、15代も兄弟、
16代、17代も兄弟、18、19、20、21代も兄弟、23代、24代も兄弟、
25代、26代も兄弟なので、実質16代の計算とする。
当時の人の平均寿命は50歳とされているので、20歳で即位したとすると1代が
およそ30年、と計算できる。
最後の紂王も50歳まで生きられなかったので、在位期間を10年とした。
すると、16×30+10=490となる。殷王朝の期間である。
1050年+490年=1540年
したがって、殷王朝の始まりはBC1540年ということである。

さて殷の前の王朝は「夏(か)王朝」である。
実在したのであろうか?


夏(か)王朝は存在するか?
 日本の歴史学者は用心深いので、夏王朝の存在については『物証』がない、と
否定的である。
これは伝説か史実か見解の分かれるところではあるが、私は司馬遷を信じているので、
史記に「夏本紀」が書かれている以上「夏王朝」の存在も信じる。


〜中略〜

夏王朝の始祖は禹である。
1、禹(う) -2、啓(けい) -3、 太康(たいこう) -
4、中康(ちゅうこう) –5、 相 (しょう) –6、少康(しょうこう)
–7 、予(よ) –8、 槐 (かい)–9、 芒(ぼう) –10、 泄 (えい)
-11、 不降(ふこう) -12、扃(けい)-13 廑 (きん)-
14、 孔甲(こうこう) -15、皋(こう) -16、 發(はつ) -
17、履癸 (りき・傑) 
禹から傑(けつ)まで17代であるが、そのうち3代と4代は兄弟である。
また11代と12代も兄弟、13代と14代は甥から叔父への相続。
また禹も帝位に就いて10年ほどで亡くなり、最後の傑も殷の湯王に追放されて
夏王朝は滅亡するので、年代の計算は13代とし、これに在位年数30年をかけると
390年となる。
1540年+390年=1930年となる。
つまり夏王朝の始まりはBC1930年となる。
実際には在位30年にみたない帝王が夏・殷時代には多いので、これのマイナス
100年くらいが妥当であろう。しかし、あえてこのまま計算してみる。


さて史記には五帝から書き出されている。
つまり、黄帝、高陽氏、高辛氏、堯、舜、の5人の帝王がいたとされる。

ここにくるとまったく伝説と歴史のはざまである。
が、ここでは実在したと仮定して5人×30=150
で、先の1930年+150=2080年となる。


黄帝は暦を造った偉大な帝王で、漢民族の祖先とされている。
黄帝の墓とされる墓は陝西省の黄陵県の県城の北、橋山の麓にある。
黄帝は伝説上の帝王とされている。
日本の歴史家の多くはその実在を認めないけれども、私は「史記」の記述を
信用して、暦を造ったということは天体の観測が国家的におこなわれたことであり、
権力者の治世の英知を感ずるのである。
星々の運行は長い年月の集団での観測がなければあきらかにならない。

さて、黄帝の存在を容認する立場の私でさえ紀元前2080年としたのである。
すると中国の歴史は4080年となる。中国が主張する「5000年の歴史」にはならないのである。
「920年の差くらいいいじゃないの」というわけにはいかない。
弥生時代から一気に平安時代にまで飛んでしまっては日本の古代史が消えてしまい
ます。

http://blog.mag2.com/m/log/0000139973/90806601?page=4#90806601

引用終わり
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メルマガではこの後になぜ中国5000年説があるのかの解説しています、
長文なので貼りませんが、読み応えがありますので興味ある方は上記URLから
たどってごらんください。

ぴょん太は以前、台湾の友達に5000年というのは学問的に根拠が無いのではないか?
と言う話をした事があるが
「人の歴史を勝手に1000年も縮めないでーゴルァ━━━(゚Д゚)━━━━!!!」
とおこられてしまった。


そこで思ったのは中華系の言う「歴史」と日本人の言う「歴史」とは根本的に違うものである
と感じた。

日本人の言う歴史は事件の記録や、文献からつむぎあげられる事実の積み重ねであるのに対して
中華系の言う歴史とは”イメージ”と”文化”の事をさす。


日本では説としてあっても事実として証明できないものは歴史として記録されないが、
中国では”イメージ”としてあるものは歴史とされてしまう。

日本人の歴史感覚が論文的で事実と想像の区分け、歴史と伝説の区分けをはっきりとさせる
傾向があるのに対して、
中国人の歴史感覚は小説的で歴史、伝説、考古学をいっしょくたに捉えているため
仮に5000年前の古代人の生活痕跡の遺跡が見つかった時に、
日本では5000年前の遺跡が見つかりましたと報道されるのに対して
中国では中国5000年の歴史の証拠が見つかったと報道されるのだろう。

この差はどこから出るのだろうか?

ぴょん太は日本が歴史上一つの王朝がずっと続いたのに対して、
中国は易姓革命でたくさんの王朝が興っては滅ぼされる事を繰り返したのに
起因しているのではないかと考えている。


前王朝を倒した時に新王朝は真っ先に前王朝の歴史を書いた
自らの正当性を証明するために政治的に
滅んだ前王朝がどんな悪い事をしたのか、自らがどの様に民を救ったのか
と言う事を事実の歪曲、誇張しながら自分に都合の良いイメージで塗っていくのである。


中国がなぜいつまでも日本に対して歴史、歴史と繰り返すのか、
なぜ日本の研究者と中国の研究者の歴史認識がかみ合わないのか

それはこの辺の違いに原因があるのだと思うよ

posted by ぴょん太 at 18:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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